文学部横断型人文学プログラム

横断型人文学プログラム

芸術文化論コース

映像芸術の世界
――映画産業を多角的に考える――

① イントロダクション

 英文学科の松本朗先生による講義でした。

 1980年代から1990年代後半にかけてのアメリカ、およびイギリス社会の変容(福祉社会から経済至上主義社会へ)と、1990年代に流行した大災害映画(ディザスター映画)とのつながりについて見ていきました。

 講義のなかでは、特に、ローランド・エメリッヒ監督によるディザスター映画『インディペンデンス・デイ』(1996)に注目しました。この作品では、共通の利益(生き残り)のために皆が一致団結するという考えが示される一方で、自爆攻撃をさせられたケイスという人物の死が、最後のハッピー・エンディングで完全に忘れ去られる、という矛盾が起きています。

 ディザスター映画は、新自由主義がもたらした競争社会の本質(自分の未来は、リスクを受け入れながら自分の手で切り拓かなければならない)の、アイロニカルな表現であるというお話でした。

② 映画のジャンル論~ミュージカル映画~

 立教大学(2020年4月より京都大学)の仁井田千絵先生による講義でした。

 1910年代後半から1960年代までの古典的ハリウッド映画の特徴と、新しいジャンルとして登場したミュージカル映画の構成について見ていきました。

 古典的ハリウッド映画の登場人物は、二つの目標(恋愛や家族といった個人的な目標と、仕事や戦争といった社会的な目標)を持っていて、ストーリーは、ひとつの目標が達成されるともうひとつの目標も達成される、というように展開していきます。

 ミュージカル映画は、上記の基本パターンを踏襲しつつ、二通りの方法――ストレート型(日常のなかの非現実、あるいは夢がテーマになっている作品)とバックステージ型(ショー・ビジネスの世界がテーマになっている作品で、歌と踊りは、映画内における舞台上演のかたちで登場する)――によってつくられているとのことでした。

③ 同性愛を扱う映画

溝口先生近影 (撮影:石黒壮明)
(「フューチャーコミックスPRESENTS~BL進化論サロン・トーク 特別篇〜ゲスト:萩尾望都先生 」2019年10月26日(土)にて。)

 明治学院大学の溝口彰子先生による講義でした。

 テーマは「レズビアン映画」。これまで映画で描かれてきた女性同性愛は、多くの場合、異性愛者の映画製作者が、異性愛者をターゲット観客層とし、異性愛規範の枠組みを脅かさない、もしくは補強するように利用する形だった、というお話でした。

 少女同士の親密さは描かれても大人になるまでの期間限定であることも強調される『櫻の園』(1990)や、傷ついた異性愛者の女性を慰めるために奉仕するキャラクターがレズビアンであるといった設定(『カケラ』2009)には、大人のレズビアンは存在しないし、もしいたとしても、彼女は異性愛女性を癒すためのコマでしかない、という偏見が表れています。つまり、大人の女性同性愛者が、主体的に、恋したり悩んだりする様子は描かれてこなかった。

 近年の例外として紹介されたトッド・ヘインズ 監督の映画『キャロル』(2015)は、1951年に発表されたパトリシア・ハイスミスの小説を原作としています。同性愛者が苛烈な弾圧を受けていた時代に、レズビアンがレズビアンとして生き抜いていくことを示唆するエンディングで、長年、数多くのレズビアン当事者たちを勇気付けてきた物語が、60年以上を経てついに映画化されたわけです。授業では、キャロル(ケイト・ブランシェット)とテレーズ(ルーニー・マーラ)がホテルの喫茶室で話しているところを、冒頭ではテレーズの知人の男性の視点から捉え、ラストでは、テレーズおよびキャロルという女性主人公の視線で見せながら、冒頭では描かれなかったその先までをも描くことで、より感動的になっていることが説明されました。主演2人が決まってからも、女性同性愛がテーマであるがゆえに、資金調達に時間がかかったことも英語圏では報道されていたそうです。そんな作品なのに、日本の配給会社によって、「レズビアン」という用語の使用を禁じられ、「美しい女性たちの愛」といった表現に直すように求められたという評論家の話を聞いて、先生はショックを受けられたそうです。それは、原作者や映画製作者たちの努力と勇気を踏みにじる行為、つまりは「文化を踏みにじる行為」であり、現実の日本のレズビアンの存在を無効化することでもあり、「オープンリー・レズビアンの研究者で教師である私には、とうてい許せるものではない」と断じた先生のお言葉が印象的でした。

④ フランス映画を考える

 フランス文学科の吉村和明先生による講義でした。

 テーマは「ヌーヴェルヴァーグ映画」。

 ジャン=リュック・ゴダール監督による「引用の織物」としての『気狂いピエロ』(1965)と「映画批判」としての『東風』(1969)に注目し、映画作品のなかの「引用」はどのような意味を持つのか(『気狂いピエロ』)、映画そのものについて考えることは映画になるのか(『東風』)について考えていきました。

 『気狂いピエロ』は引用にはじまり(エリ・フォール『近代芸術Ⅰ』のベラスケス論)引用に終わる(ランボーの詩「永遠」)作品で、ストーリーのなかにも多くの引用が登場します。

 『東風』では、ハリウッド批判、メーキャップ(ごまかし)批判が、アジテーション(扇動行為)のように語られます。

 講義冒頭での先生のお言葉「映画とはイメージの体験であり、新しい世界の発見である」の通り、非現実でありながら同時に現実でもあるような、不思議な世界を体験した時間でした。

⑤ 映像を分析する~ショットを読むということ~

 明治学院大学の斉藤綾子先生による講義でした。

 プロダクション・コード(映画製作倫理規定)の規制緩和とホラー映画流行という時代背景のなかで生まれたヒッチコック監督の映画『サイコ』(1960)を取り上げ、シーンを分析していきました。

 盗みを働いたヒロインのマリオンは、シャワーを浴びている最中に、精神を病んでいる男ノーマンに刺殺されます。

 注目すべきは「音」。マリオンが雨のなか車を運転するシーンでは、シャワーシーンで彼女が殺された後と同じ音が使われています。

 浮かび上がってきたのは、切れ切れのストーリーを貫く、「罪を洗い流す」水のモチーフの重要性でした。

⑥ 映画とビジネスの関係

 日本大学の古賀太先生による講義でした。

 映画は、製作予算が大きいうえに、プロの評価より大衆人気に左右されることから宣伝費もかかるという、ハイリスクなビジネスです。同時に、ヒットすれば莫大な収益が得られるという、ハイリターンなビジネスでもあります。

 昨今は、オリジナル脚本がめずらしくなっていますが、それも、小説や漫画作品等の映画化に比べて、認知度向上のための宣伝にお金がかかるという商業的な事情によるものです。

 映画ビジネスの要である製作、配給、興行を邦画大手が独占している、プロデューサーの力が弱くて映画館の力が強いといった、日本の映画業界が抱える問題についても知ることができました。

舞台芸術の世界

① 舞台で役を演じる

 ミュージカル俳優の石井一孝先生による講義でした。

 ひとつの舞台がどのように作られていくかについて、貴重なお話を伺うことができました。

 舞台稽古の期間は約四日、稽古中の伴奏は小さなグランドピアノかアップライトピアノのみで照明もなし(日本のミュージカルの場合)という事実には驚きです。

 お話だけでなく、『ジキル&ハイド』からFirst Transformation とAlive! を、さらに、シンガーソングライターでもいらっしゃる先生が作曲を手掛けられたオリジナル曲「幕が上がれば」をご披露いただき、皆にとって幸せなひとときとなりました。

② シェイクスピア劇と英国史

 英文学科の西能史先生による講義でした。

 英語という言語の基礎を築いた天才と称されるシェイクスピアの『ジョン王』(1596年頃)に至るまでの英国史について見ていきました。

 二週にわたる講義の第一週目だったため、『ジョン王』の中身については触れられませんでしたが、先生のおっしゃった、「文学作品を読むという行為は、すぐれた死者との対話である」という言葉が心に残りました。

③ 舞台芸術を支える

 国際交流基金アジアセンターご所属の舞台芸術コーディネーター山口真樹子先生による講義でした。

 文化紹介や人物交流というかたちで舞台を支えてこられた先生ですが、文化を「発信」するには、発信する相手のことも知らなければならない、交流とは双方向的なもの、といったことを常に考えていらっしゃるそうです。

 東京ドイツ文化センターやケルン日本文化会館でお仕事をされていたご経験から、ドイツと日本の演劇システムの違いについてのお話もうかがうことができました。

④ 落語~噺家の演技~

 国文学科の福井辰彦先生による講義でした。

 舞台装置は座布団一枚、小道具は手ぬぐいと扇子のみという、シンプルかつ味わい深い舞台芸術「落語」についてお話しいただきました。

 目線、声の出し方、首の角度などで、空間の奥行き(家のなかのシーンであれば家の広さ)を表現するのが、落語の演技であるとのこと。

 実際に、古今亭志ん朝『船徳』の映像を観ながら、演技に触れる時間もありました。

⑤ 歌舞伎を製作する

 歌舞伎脚本家の今井豊茂先生による講義でした。

 シェイクスピア原作の『NINAGAWA 十二夜』や、絵本が原作の『あらしのよるに』の脚本を手掛けられた先生からは、古典芸能のなかで新作がどのように生み出されていくかについての興味深いお話を伺うことができました。

 『NINAGAWA 十二夜』での、紗幕の代わりに鏡を使用した演出、歌舞伎史上初の、動物しか舞台に登場しない『あらしのよるに』。いずれも斬新な試みですが、舞台稽古や小道具の作成の手順は、古典演目のときとまったく同じだそうです。

 こうした童話やシェイクスピア劇の歌舞伎化は、かつての、文楽『仮名手本忠臣蔵』の歌舞伎化と何ら変わらないプロセスを辿っているというご説明もありました。

⑥ 文学と音楽劇

 フランス文学科の博多かおる先生による講義でした。

 メリメの原作をもとにしたビゼーのオペラ『カルメン』(1875)の演出効果について、公演が収録されたDVDを観賞しながら考えていきました。

 カルメンが舞台に登場するときに歌う有名なアリア「ハバネラ」は、当時の流行歌を素材にして作られたものです。

 他にも、カルメンが恋人のホセに赤い花(ホセの保守的価値観と対をなす価値観の表象)を投げる、伍長であるホセにとっては秩序の象徴であるラッパの音を、カルメンが伴奏代わりにして踊る、といった演出によって、ロマであるカルメンの人物像が巧みに表現されていることがわかりました。

⑦ 劇の台本をつくる

 舞台演出家、脚本家、翻訳家でいらっしゃる木内宏昌先生のご登場です。

 先生が現地で鑑賞された、ルーマニアのシビウ国際演劇祭の模様についてのお話から講義ははじまりました。

 ルーマニアの巨匠シルヴィウ・プルカレーテ演出の作品は、舞台芸術とは何かについて改めて考えさせられるような不思議な世界観をわたしたちに提示します。たとえば、『ファウスト』では、観客が席を立って、地獄を観に行くツアー(セット裏)に参加したりするのです。

 「舞台の台本」とは何か、「台詞」とは何を観客に伝えるものなのか、等についても考えていきました。

⑧ 総括~ドラマトゥルギーとは?~

 最後は、ドイツ文学科の三輪玲子先生による講義でした。

 「ドラマトゥルギー」の元になっている「ドラマ」の原義は「ドラン(行動する)」。演劇は、行動に意味を持たせようとする側(上演関係者)と、行動の意味を汲みとろうとする側(観客)の両方が存在することによって、はじめて成立します。

 「ドラマトゥルギー」には、具体的に、「作劇法、演劇論」、「戯曲の脚色」、「演劇制作部」といった意味があります。

 日本ではあまり馴染みのない職業「ドラマトゥルク」についてのお話もありました。「ドラマトゥルク」とは、劇場所属の文芸部員のことで、シーズンごとに上演する作品の選定や上演台本の翻訳・改作・作成、演出への協力などを、主な仕事としています。

 森鴎外が訳したグルック作曲のオペラ『オルフェウス』が、長いときを経てようやく舞台にかけられた際、鴎外の原稿をチェックし、修正するという重要な役割を担ったのは、日本人のドラマトゥルクでした。